
追悼・小島弘務氏の数奇な野球人生 「2度の隠し玉」から中日・ロッテ、指導者へ
2026年8月7日、元中日・ロッテの投手として活躍した小島弘務氏が、肺がんのため58歳で亡くなったことが明らかになりました。
小島氏は、プロ野球選手として通算167試合に登板した右腕です。
しかし、その野球人生は決して平坦なものではありませんでした。
ドラフト外で西武と契約したものの、野球協約上の問題から契約が無効となった過去があります。
その翌年には中日から外れ1位で指名され、再びプロの世界へ。
まさに「2度の隠し玉」ともいえる異例の経歴を持つ選手でした。
今回は、小島弘務氏の野球人生や中日時代のエピソード、星野仙一氏との関係、引退後の指導者としての歩みを振り返ります。
目次
小島弘務氏が58歳で死去
小島弘務氏とは?プロ入りまでの経歴
「ドラフト外」で西武に入団するも契約が無効に
根本陸夫氏との出会いが転機に
1990年ドラフトで中日が外れ1位指名
中日時代は貴重な中継ぎとして活躍
星野仙一氏との「鉄拳制裁」エピソード
ロッテ移籍から現役引退まで
引退後は焼肉店経営から野球指導者へ
高校野球監督として再出発
小島弘務氏が残したもの
まとめ
小島弘務氏が58歳で死去
小島弘務氏は2026年8月7日に死去したことが報じられました。
58歳という若さでした。
現役引退後も野球界との関わりを続けており、近年は高校野球の指導者として活動していました。
2024年からは浜松修学舎高校の監督に就任。
しかし、2025年11月に体調を崩し、2026年3月に退任していたとされています。
現役時代だけでなく、指導者としても野球に携わった人生でした。
小島弘務氏とは?プロ入りまでの経歴
小島氏は京都の平安高校、現在の龍谷大平安高校の出身です。
高校時代には甲子園出場を果たせませんでした。
その後、駒澤大学へ進学。
しかし、大学生活の途中で中退し、その後は社会人野球の住友金属へ進みました。
ここから小島氏の運命が大きく動き始めます。
西武のスカウトに才能を見いだされた小島氏は、1989年にドラフト外で西武と契約しました。
契約金は4500万円。
当時としては破格ともいえる条件で、背番号14も与えられました。
ところが、思わぬ問題が発生します。
「ドラフト外」で西武に入団するも契約が無効に
西武と契約した小島氏は、春季キャンプにも参加しました。
阪神との練習試合にも登板しています。
ところが、コミッショナーから野球協約上の問題を指摘され、西武との契約が無効となりました。
背景にあったのが、社会人野球での在籍年数の扱いです。
大学を中退した小島氏は、制度上の扱いからドラフト対象となるまでに必要な期間を満たしていないと判断されました。
小島氏はキャンプ地から離れることになり、突然プロへの道を閉ざされます。
本人にとっては、あまりにも厳しい出来事でした。
一時は「まるで犯罪者みたいだった」と当時を振り返ったこともあったとされています。
根本陸夫氏との出会いが転機に
そんな小島氏を支えた人物として知られるのが、当時の西武球団で大きな影響力を持っていた根本陸夫氏です。
根本氏は小島氏の面倒を見ることを決めました。
さらに小島氏を自宅に住まわせ、練習環境を用意。
毎日のように投球練習を行わせたと伝えられています。
当時の小島氏にとっては厳しい時間だったようです。
一方で、この時期の猛練習が後の投球フォームを確立するきっかけになったともされています。
小島氏の特徴だった、体を沈み込ませるような投球フォーム。
独特の球持ちの良さを生かしたスタイルは、この時期に形作られていったとされています。
1990年ドラフトで中日が外れ1位指名
西武との契約が無効になったことで、小島氏は1年間プロ球団に所属しない状態となりました。
当然、ドラフトでは注目度が下がります。
しかし、ここで再び転機が訪れます。
小島氏に目を向けたのが、当時中日のスカウトだった岡田悦哉氏でした。
岡田氏は小島氏の実力を高く評価。
実家まで足を運んで投球を確認したとされています。
そして迎えた1990年のドラフト会議。
中日は亜細亜大学の小池秀郎投手を1位指名しました。
しかし、抽選で交渉権を獲得できませんでした。
そこで中日が外れ1位として指名したのが、小島弘務氏でした。
一度は西武への入団が決まりながら契約無効となった男が、翌年には中日の外れ1位。
小島氏が「2度の隠し玉」と呼ばれる理由です。
中日時代は貴重な中継ぎとして活躍
中日に入団した小島氏は、先発ローテーションに定着するまでには至りませんでした。
しかし、ロングリリーフもこなせる投手としてチームに貢献します。
1990年代の中日で、さまざまな場面に対応できる投手は貴重な存在でした。
1998年にはロッテへ移籍。
1999年までプロ野球でプレーしました。
中日・ロッテ時代を通じた通算成績は167試合登板。
19勝15敗、8セーブ、防御率3.60という数字を残しています。
派手なスター選手ではありませんでしたが、チームを支える投手としてプロの舞台で存在感を示しました。
星野仙一氏との「鉄拳制裁」エピソード
小島氏を語るうえで、もう一つ知られているのが星野仙一氏とのエピソードです。
1991年5月、横浜スタジアムで行われた試合で、小島氏は4回で降板。
その後、移動バスまでタオルで口元を覆いながら歩いていたといいます。
そのタオルが血で染まっていたことから、記事では試合後に星野氏から「鉄拳制裁」を受けたとされています。
ただし、このエピソードについて小島氏自身は、周囲に詳しい事情を明かさなかったとされています。
後に話を振られても「転倒したことにしておいてくださいよ」と語っていたという話も伝えられています。
そのため、当時何があったのかについては、本人の胸の内に残された部分も少なくありません。
星野氏との関係についても、単純に「厳しい指導」という言葉だけでは説明できない面があったのでしょう。
ロッテ移籍から現役引退まで
小島氏は1998年にロッテへ移籍しました。
翌1999年に戦力外通告を受け、プロ野球生活に区切りをつけます。
その後は台湾プロ野球にも挑戦。
現役生活を終えた後は、焼肉店経営を経験するなど、野球以外の道も歩みました。
しかし、最終的に戻ってきたのは野球の世界でした。
引退後は野球指導者へ
現役引退後の小島氏は、アマチュア野球の指導者として活動します。
2015年からは追手門学院大学の監督を務めました。
さらに2022年には、静岡県の浜松開誠館高校で投手コーチを務めています。
そして2024年には、浜松修学舎高校の監督に就任。
念願だった高校野球の監督として新たなスタートを切りました。
現役時代に自身が経験した挫折や苦労。
それらを知る小島氏だからこそ、若い選手たちに伝えられるものも多かったのではないでしょうか。
高校野球監督として再出発
小島氏が歩んできた人生には、何度も大きな壁がありました。
大学中退。
社会人野球への転身。
ドラフト外での西武入団。
そして契約無効。
そこから1年間の空白期間を経て、中日の外れ1位指名。
プロ野球での競争。
現役引退。
そして指導者への転身。
決して一直線の野球人生ではありません。
だからこそ、逆境を経験した小島氏の言葉には、若い選手たちにとって特別な重みがあったと考えられます。
小島弘務氏が残したもの
小島氏のプロ野球選手としての通算登板数は167試合です。
一方で、その数字だけでは彼の野球人生を語り尽くせません。
一度はプロ入りを目前にしながら、制度上の問題で契約が無効になる。
それでも野球を諦めず、再びドラフトの舞台へ戻る。
そして今度は中日から外れ1位で指名される。
その後もプロで投げ続け、引退後は指導者として若い選手たちを育てました。
「2度の隠し玉」という異色の経歴だけでなく、何度も訪れた逆境を乗り越えた姿こそ、小島氏の野球人生の大きな特徴だったのではないでしょうか。
58歳という若さでの訃報は、野球界に大きな驚きを与えました。
これまで小島氏が携わってきた選手たちの中には、これからも教えを胸に野球を続ける人がいるはずです。
波乱に満ちた野球人生を歩んだ小島弘務氏。
その経験と情熱は、教え子たちの中で受け継がれていくことでしょう。
心よりご冥福をお祈りいたします。
まとめ
小島弘務氏は、ドラフト外で西武と契約した後、野球協約上の問題から契約が無効となるという異例の経験をしました。
しかし、野球を諦めることなく1年間の空白を乗り越え、1990年のドラフトで中日から外れ1位指名を受けました。
その後は中日、ロッテで167試合に登板。
現役引退後はアマチュア野球の指導者となり、大学や高校で選手を指導しました。
最後は高校野球の監督として新たな挑戦を続けていました。
「2度の隠し玉」と呼ばれた小島氏の数奇な野球人生。
その歩みは、野球界に残る異色の物語の一つといえるでしょう。
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最終更新:2026-08-08
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